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1968初めての山スキー・立山
日時:1968(昭和43)年11月21日〜25日
参加者:NABE、Y本、ほか(U研究室N・N'・I氏ほか)

 初めての山スキーは、大学院に入った年の秋の連休、立山だった。
 当時は研究室のみんなでスキーに行ったものだが、大学院にいた先輩のY先生(当時まだ院生だったが、後のM大教授なので「先生」としておく)が富山出身の登山・スキーの熟達者で、秋と春の休みには研究室で立山へ行くという。「たてやま」と聞いて咄嗟に北アルプスは連想できなかった。しかも11月末の連休で、東京地方ではまだ雪のことなど全く意識外の時期である。
 当時は大町から入る「黒部立山アルペンルート」は未完成(立山へ行くといつも室堂でトンネル工事をしていた)で、湖西線も未開通、新幹線は東海道・山陽だけだったから、立山へ行くには、新幹線で米原まわりか、上信越の夜行で、富山から入るしかなかった。この時は米原まわり。真っ青な青空の下、朝 07:30発の「こだま」にスキーを抱えて乗ると、周囲から奇異の目で見られたことは言うまでもない。米原から(当時は米原経由の)「雷鳥」に乗り換え、富山からは地鉄(富山地方鉄道)で、暴れ川で巨石が散乱する常願寺川を見ながら終点の千寿が原(現在は「立山」)まで行って、ケーブルカー(弥陀ヶ原に通じる道路は環境保護のため作られておらず高原バスも工事車輌もすべてこのケーブルカーで運び上げた)に乗ると、美女平から弥陀ヶ原行きの最終バスに間に合う、という絶妙のタイミングだった。Y先生のお父上(富山県の教育界の重鎮)にお願いして、弥陀ヶ原の「立山荘」(富山県教育委員会管理、吉坂隆正設計)に泊った。あとは烏賊の黒作りをつまみにビールを飲むだけ。
 翌日からは山スキーだ。スキー場と言えばリフトがあるものと思いがちだが、無論ここは純然たる「山」である。スキーをかついで黙々と室堂や一の越まで歩き、滑って降りてきたら、それで1日のスキーはお終い。
 登りはツボ足で、4時間ぐらいかかっただろうか。一般登山客とまざって、時には混雑して立ち止まったりしながら、何とか室堂小屋まで辿り付く。途中の浄土あたりで引き返したり、一の越まで足を伸ばしたりしたこともある。
 下りはまだ薮が出ているから、ほぼ登山道沿いに滑る。4時間かけて、途中で昼飯を食べ、やっと登った距離を、下りは休み休み、写真を撮ったり、雪にエバミルクを掛けて(掛けると凍るから)がりがり食べたり、要するに遊びながら降りてくるのだが、それでも1時間かそこらでお終い。何とも贅沢だ。まだスキーが下手だったから、よく転んで、かなりの距離を背中やお尻で滑った。
 リフトで上がった分を転倒滑落すると、リフト代がもったいない気がするから、自力で苦労して歩いて登った分をスキーで滑らずに背中で滑ったら、もっと「もったいない」気がする、と思いきや、それが寧ろ逆だった。大自然の中ではそんなケチな事は気にならない。この大らかな気分が最高に気に入って、1回行っただけでもう山スキーの虜になった。当時、小生はいわば悶々たる青春の悩みの時代(?)にあったのだが、山の写真だけはまさに生き生きと写っている。
 最後の日は、この時はバスで降りたと記憶する(古いアルバムや旅行記録を調べなくちゃいけない)が、弥陀ヶ原道路に積雪があれば、美女平まで滑る。各山小舎も冬ごもり支度。この連休を境に立山は、うっかり近付けない冬山の世界に入ってしまう。
 当時は山スキー用の道具などなく、普通のスキーに普通の靴で、靴のバックルを緩めにしてそのまま歩いた。シールなる道具があることは知っていたが、使うのはもう少し後になってから。踵が上がる山スキー用の締具も、使い始めたのは数年後である。重装備の冬山登山者の集団に、単なるスキーの格好でスキー靴を履いた我々数名が混ざると、すごい目つきで睨まれたものだ。
 これを機会に、秋の連休は立山で初滑り、春遅くまで山スキー、更に夏(梅雨明け後)までスキー、という山スキー人生が始ったのである。