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八甲田春スキー・転びつまろびつ


日程:1969(昭和44)4月17日(木)夜行〜21日(月)
参加者:NABE、I藤
コース:上野(夜行)青森→酸ヶ湯→城ヶ倉荘→田茂萢→酸ヶ湯→城ヶ倉荘(泊)/→酸ヶ湯→硫黄岳→酸ヶ湯→城ヶ倉荘(泊)/→酸ヶ湯→大岳→酸ヶ湯→城ヶ倉荘→青森(夜行)→上野

1969.4.17(木)雪→小雨→曇
 八甲田山へ春スキーに行く、連れは研究室の先輩・I氏、仙台出身で禁欲的なスキーをする。今日は東京で雪が降り、積雪2cm。19:40ごろ白山下の下宿からtaxiで上野へ向かう。急行寝台・十和田4号を待つが、時間がありすぎ。20時、入線したから早速乗り込む。連れのI氏は発車10分前に来たが、もうちょっと早く来てほしいねえ、いきなり疲れるなあ。寝台車に乗るのは久しぶり。スキーを持っている乗客は数えるほど。2等寝台(ハネ)ベッドは狭い。すぐ寝入ったが、いったん目が覚めたらもうあとはウツラウツラ眠れない。

1969.4.18(金)曇・小雪
 朝7時、作業員が寝台を畳みに来る。手早い作業を通路で見るが、剥がした毛布・シーツを通路床に投げ捨てて踏んで歩くのには、ちょっと抵抗感あり。
 朝食は食堂車(マシ35-2012、製造後経年10年)。朝食は400円(当時の日記には「400円する朝食を」などと書いてある)。車輌は古いが、食堂の雰囲気はいかにも鉄道旅行らしくて良い。寝台の席より座り心地が良いから、I氏に倣って長時間居座る。青森が近付くと、蒸気機関車がたくさん走っている。C61・9600・8620などを窓からハーフサイズのカメラで撮る。
 青森にはだいぶ遅れて到着し、しかも09:20の筈だったバスが09:10頃に出ちゃったので、1時間ぶらぶらして待つ。その間に帰りの切符(20日の十和田6号寝台券)を買っておく。
 10:20のバスで酸ヶ湯へ。しかし第13(?)回八甲田アルペンスキー大会があるとかで、宿は満員、小雪のちらつく中で困った(宿の予約なしで行ったんだろうか、そのわりに寝台車にはこだわっているが、オフシーズンだから予約不要と言われたのかもしれない)。うまくバスを捕まえて城ヶ倉まで移動。ここは無事泊れた。込み込みで2000円、今日はサービス料金とかで、幸運だった。
 とにかく滑りに行きましょうと、昼飯(パン+蜂蜜、レタス)を自室で食べ、宿を出る。田茂萢岳のロープウェイへ行きたいと言ったら、宿の人は、3kmぐらいだが滑って行けますとのこと。これを信用して出たら、とんでもないツアーをすることになった。4分の3ぐらいは歩きで、殆ど登り。滑ったのはごく僅かで、滑ると言っても土色の雪で、滑りにくいと言ってもワックスなどすぐ取れてしまう。寒水沢を越えるのにはけっこう苦労し、滑落して樹液の臭いがする。
 田茂萢ロープウェイ駅にたどり着くと、ゴンドラがちょうど降りてきた。330円、10分で上の駅に着いたらもう14:30で、酸ヶ湯へ滑って行く人は14:30に案内が出るが、それ以後はやめて下さい、などと言われる。慌てて登山届を記入し、ガイド付きの一行に加わって出発する。天気は良くないので、田茂萢の頂上あたりはすごい風で、ばりばりに凍っている。下手な人もいたので、まあまあのペース。30分ほどの滑降で、あっけなく酸ヶ湯の湯坂の上に出てしまった。
 スキーの「練習をする」I氏と、ここの湯坂で夕方まで滑った。帰りはバスには乗らず、往きのコースの逆は下りだから、滑って帰った。城ヶ倉の温泉は透明な湯。TV見てから寝た。

1969.4.19(土)曇→晴
 今日は八甲田の主峰・大岳方面(結果的には硫黄岳)へ向かう。ジープ(??:宿の車か?)に乗ろうとしたが、ちょうどバスが来たので酸ヶ湯まで乗る。同宿の8人連れが登って行く後を付いて行くが、途中で追い越した。沢がかなり続き、疲れて来た。相変わらずの曇天だが、沢を登り詰めて夏道頂上コースを左へ分ける(我々は右へ行く)あたりで明るくなってきて、ガスが切れはじめ、上にいるうちに大体晴れて来た。
 大岳・硫黄岳の鞍部からちょっと硫黄岳寄りにあるヒュッテの傍で休み、まだお昼には早いから硫黄岳(1360m)に登る。途中まで下りで、あとは真っ白な(というか黄色い)ザラメの大きな東斜面を登る。登りにくい雪質である。一方、北斜面はアルペンスキー大会のコースになっているようで、硫黄岳の上からバス道路までずっとつながっている。硫黄岳の頂上で昼食。飲物が無いので雪を食べるが、やはり喉が乾く。
 さて滑降。しかし当時はスキー技術がひどく下手だったし、道具も今とは比較にならない。硫黄岳の東斜面で何度も転んだ。その都度I氏が「木立を抱くように体を向けて」などと教えてくれるが、こっちはそんな余裕なし。雪質がひどい、と当時の日記にあるが、後年だったら、「誰も踏んでないままの腐れ雪は超滑りやすかった」などと書くところだろう。小生よりは余程スキーが巧かったI氏も、「よほどの達人じゃないと(こんな雪では)うまく滑れない」と言っていた。当時の小生のスキー技術では、捻挫せず下山するのが精一杯だが、案の定、右足首を軽く捻挫。そうしたらもう怖じけついてしまって、その後はますます巧く滑れない。「硫黄コース」から大きい沢の下端に出て「大岳コース」に入るが、滑りにくいコースだった。
 まだ15時前なので、酸ヶ湯で温泉に入る。ここは脱衣場は別だが浴室は混浴。入浴料40円、タオルは100円(当時としては異常な高値?)だが、お土産用と思って買ったか持っていたのを使ったか記録なし。部分的に腐った木製の浴槽、白濁した湯は強酸性で、口を開けて喋っていると歯が融けて来るほど酸がきつい。口に含んでみたら、酸が強すぎて危険を感じた。混浴といっても若い女性は少ないが、それでもちゃんと若い女性の山スキー者がいた。ついついそっちに目が行く。しかし近付いて喋りかけるなんて行為が当時の小生にできる訳が無い。
 入浴後ビールを飲んだら、本当にぐったり疲れた。しかし宿まで帰らないと。疲れた体に鞭打って、湯坂を登り返し、左手の大岳コースを少し登って、あとは林間を適当に滑り、途中からコースに入って城ヶ倉へ下った。まさに林間コース。要するに、この時期の八甲田は、どこでも滑ることが可能なのであると実感した。
 今日は週末で客が多く、夕食は食堂へ行かないといけない。食後はぼーっとTVを見ていた。疲れた。

1969.4.20(日)快晴
 お〜!、この青空。すごい天気だ。朝のバスを逃して、出遅れついでに酸ヶ湯まで20分歩いてしまった。今日は体がバテているから(当時は下手で、だから疲れた)、休み休み、騙し騙し、まさに休みながら登る。大きな沢の途中で3回休憩し、ついに密柑を食ってエネルギー補給。昼過ぎ、やっと沢を登り詰めるが、今日こそ大岳に登ろうと、中腹まで登って昼食、たっぷり缶詰を食べた。寒くなったから、体を温めるべく急な南斜面を直登する。斜面を登り詰めると大岳の頂上(1584m)で、大きな火口がある。昨年(9月5〜13日)の東北ユースホステル旅行の際には、観光旅行を途中から山ハイキングに変更して東北の主な山を登ったが、八甲田はガスだった。昨年は殆ど見えなかったこの山の全容が見え、ガスの中を黙々と登ることの無意味さを痛感した。しかし昨年は、登山経験など殆ど無いのに、こんな山にガスの中たった一人でよく来たものだ。
 頂上からは360゜の眺望。遥か田茂萢ロープウェイ、雲谷、青森、津軽半島が一望。八甲田の全容がつかめて、あらためてそのスケールに感動する。大きなスケールの自然の中に放り出されると、「歩いて行けるスケール」に慣れないうちは、本当にあそこまで行けるのかが分からないから、ちょっと怖いぐらい。目を転ずると、さまざまな雪山。左を見れば、昨日の硫黄岳は遥か下方。その麓にバス道路。十和田外輪山はどこだかよく分からないが、乗鞍岳が見えている筈。やはり昨年行った八幡平は、見えない。鳥海山は登りの途中で大きな山容が良く見えた。すぐ傍には小岳で、ここにも2〜3人のスキーヤー(要するにどこを登っても滑れるんだ)。その更に向うに高田大岳。その左は広い湿地帯(田代平)。すぐ目の下には井戸岳の鞍部からつながって赤倉岳(こうした記述が、帰宅後にまだスライドが出来ないうちに書いた筈の日記に、延々と書いてあるから、よほど印象が強かったと思われる)。今日は人が多い。たいていの山に人が入って滑っている(要するにどこを登っても滑れるんだ)
 頂上から北斜面へ行ってみたら、何と一転してとても良い雪だった。しかも北→東斜面にはシュプールも殆ど無く、広大な斜面が広がる。こんな大斜面を見るのは初めて(おそらく鳥肌が立っていただろう)。
 新雪をすいすい回って滑って行けるようになるのはずっと後のことだから、当時は新雪を楽しく滑るなど夢の話。時々回ろうとしては転ぶ。その都度、I氏から「基本を練習しないと駄目だ」と指摘(叱責?)される。しかし転んでも楽しいんだから俺の勝手、と、大きく右へ回り込んでから、ヒュッテまでは自由に滑った。ヒュッテでエバミルクを飲んで(食べて?)、その後は沢を振子状に下る。幅のある沢を右に左に(ハーフパイプなどと言う言葉は当然なかったが、まさにそれ状態で)斜面に乗り上げてはずずーっとスキーのトップを滑らせて逆へ下るのを繰り返す。楽しいなあ、楽しいなあ、と振り返ると、真っ青な空。しかし天気予報どおり、既にうろこ雲が出始めている。
 下山し、また酸ヶ湯で入浴。今日は日曜なので、青森市内からの入浴客が多く、温泉は込んでる。混浴目当てみたいな嫌な親父が多く、女性入浴客がいると目を皿にして見ているのが実にいじましい。しかし昨日の若い女性はいません。当時填めていたT大美術サークルの銀製指輪が、酸で黒くなって、良い色になった。また疲れた体に鞭打って、酸ヶ湯から城ヶ倉まで滑って帰る。入浴後は辛い。
 さて、今日は青森へ出て東京へ帰る。I氏がどうしてもバスで帰ると主張する(ひどく苛々して歯を食いしばるように「強く主張する」って感じが、何だか怖かった)から荷造りを急ぐが、バスは上で見た時は16:52だったが行って見たら16:35で、結局間に合わず。次のバスも満員で通過。最終バスまで1時間40分以上待つことになった。一緒に待っていたおっさんが苛々している。ずっと外で待っていたから、すっかり冷えてしまった。当時スキーは木製プレスで挟んで裸で持っていたので、逆さまにするとスキーの先とストックの先で3点支持になって、うまくバランスさせると立つ。面白いからそうやって立てていたら、突然倒れて、ゴム製スキーバンドがアスファルト路面に当って切れた(何でこんな細かいこと覚えてるんだろうね、こんなことは日記には書いてないが、思い出して書いているうちに記憶が蘇る)。バスはギューギュー詰め(と言ってもスキーがあるから乗れないだけ)だったが、茅野茶屋で空車が待っていて、乗り換えた。バス代はたしか200円。
 青森で夜行を待つ間、I氏は散髪する。小生は2回食事し、土産物屋で干物・スルメなど自分用の土産を買う。21:30、十和田6号は比較的空いていた。2等寝台は3段向い合せで1ボックス6床だが、我々(I氏:2中、小生:2上)の他に若い女性が1人いたが、男性2名(他にも男がいたかもしれない)と同ボックスなのを嫌って他に移った。何だか感じ悪いなあ。疲れて良く寝たようだ。

1969.4.21(月)
 7時前に目覚めると、すぐに寝台を畳みに来る。寝台車要員はおじさん乗務員ばかりで、あまり印象が良くなかった。朝食は食堂車(往きと同じマシ35-2012)へ。食堂には可愛いウェイトレスがいた。食堂車と言えば、始発駅を発車する際に柱ごとに1人ずつウェイトレスが整列しているのが、何だかすごく様式的でよかった。ジュース・スープ・(読めない)の朝食で、ゆっくり(コーヒーかな?)飲んでいたら水戸駅で11分停車し、修学旅行の高校生と窓越しににらめっこ状態。寝台車の旅行では、いつも朝食でこういうシーンを経験したものだ。
 ヒルネ(寝台車座席使用)の同じボックスに座ったよく日焼けした男が、馴れ馴れしく喋りかけてくる。牛久あたりでドライブインレストランの話をしていたら、「貴方が開いていらっしゃる?」と来る。よくいるんだよね、こういう、勝手に早とちりして話を作っちゃって、その話に合わせて来る手合って。まったく話していて疲れるが、逃げ場が無い。上野から水道橋へ、空いたバスに飛び乗って帰宅(バスが裸のスキーを乗せてくれたんだ、この時はまだ)。洗濯と昼飯で、大学には夕刻に行った。顔が日焼けでひどく腫れている。

◆後日談:実に詳細な記録だが、当時の日記帳には、実はもっと詳しい記述がある。我ながら記録魔である。I氏とはその後いっしょに設計事務所を作ったり、そこをクビになったり、いろいろあったなあ。当時「旅行ファイル」はまだ作ってなかったので、寝台券とか宿の領収書とか箸袋とかロープウェイの半券とかは、何も残っていない。久しぶりに当時の日記を読んで、非常に懐かしかった。(2003.8記)