八幡平・吹雪の初ツアー
日時:1971(昭和46)年3月12日(金)夜行〜15日(月)朝
参加者:NABE、Y本、Hら、O野
コース:上野(夜行)/13:→盛岡→(大更?)→(taxi)→御在所温泉→茶臼山でスキー→八幡平HY(泊)/14:→八幡平ツアー→蒸の湯→トロコ温泉→(bus)→八幡平→盛岡→(夜行)→15:上野
1971.3.12(金)曇・寒い
八幡平横断コースは、スキーツアー案内の本に必ず出ている。以前、東北均一周遊券YH旅行の際に、初秋の八幡平を一人で横断したが、アオモリトドマツの枝に連番を書いた丸く赤い標識が掛かっていたのを覚えている。当時は冬にその標識を辿ってツアースキーを自分がするなどとは想像していなかった(だろう、多分)。
余計なメモ・1968(昭和43)年9月8日 10:30御所掛温泉→11:30蒸の湯→12:25田代沼12:30→13:05峠→13:15八幡平頂上13:25→14:40茶臼→15:35リフト上。松尾鑛山鉄道に乗った記憶がある。
母親が上京したので下宿のばあさんと会わせ、新宿で切符(誰かがどたきゃんした分の寝台券)の払い戻しをして、シールを買ってあげたO君と会って、出版社へ「可動建築論」の出版打ち合せに行くなど、非っ常に忙しい一日。急いで帰宅して入浴し、スキーを担いで上野へ急ぐ。
今の時期の八幡平はシールが必須だから、5000円預かってO君の分のシールを買いに行った。店員もシールの事をよく知らず、2セットいっぺんに包もうとするので、黙って2ヶ貰って来ればよかったのに根が正直者なもんだから、ついつい「2足分ですよ」と言ってしまった。損したかな。なお、このツアーでは、シールを使用したものの、締具は踵固定のゲレンデ用。踵が上がる山スキー兼用締具は、まだ市販されて(orあまり知られて)いなかった。今から考えると踵固定のままでシール歩行など考えられないが、それでも皆何とか歩いていた。長距離歩くとそれこそ太股がぱんぱんに張ったものだ。
隣のホームの列車には立っている客がいた。この列車も相当込んでいる筈だが、全車寝台だから込み具合は分からない。あまり眠れなかった。
1971.3.13(土)曇→雪
朝7時ごろ着き(と日記にあるが、盛岡から直接タクシーに乗ったのか、大更/おおぶけまで国鉄・花輪線に乗ったのか、記録が無い)、タクシーで御在所温泉へ(2560円という記録からは、大更からだろう)、ユースホステルの近くまで(多分タクシーで、これも記憶曖昧)登る。岩手山がよく見えるが、高曇状態で、そのうちガスって来て、雪になった。八幡平スキー選手権とかで、中高生がいっぱいいて、YHは満員。いかにも田舎のYHのペアレントさん、といった感じのおじさん。チェックインして、スキーへ出かける。
午前中は2本の長ーいリフトに乗って1本滑り、2回目はリフト1本分だけ滑る。昼飯(どこで食べたか覚えていない)にライスカレーやパン等を食べ、茶臼岳へ足慣らしにミニツアー。リフト終点から少し登って、一気に鞍部まで下ってから、シール登高。一登り、右折、二登り、あとはシールのままだらだら下り、少し登りがあって(と日記にあるが地図とは矛盾)、1時間足らずで茶臼小屋に着く筈だが、シールが緩んだり外れたりトラブルが多いので、ついに茶臼岳(1578m)の頂上手前で外した。しかし雪が深くてもぐってうまく歩けない。小屋で休む間に対策をいろいろ考えたが、紐でぐるぐる巻に縛るのがうまく行きそう、と日記にあるが、具体的には覚えていない。当時のシールは貼り付けではなくトップを引掛け、テールを締め上げた後、中間2箇所の金具を紐で縛る(シールを買うと綿紐が付いていたが実際にはパンツのゴムで縛った)だけだから、板とシールの間に雪が挟まって頗る歩きにくい代物だった。シールの裏面には雪が付かないようにワックスを塗っておくのだが、O君は間違えて撥水クリームを塗って来たので、べたべたで取るのに苦労したという記憶があるがこの時だったかどうか覚えていない。スポーツ道具屋がO君に間違って撥水クリームを渡したという記憶もあるが、それでは上記の代理買物の記述と矛盾する。謎。
下りは、さっきのシュプールがもう雪で埋まってしまうほど。リフトも止まってしまった。YHではミーティングが中止(当時はYH利用でよく旅行をしたがこのミーティングというのが苦手でいつもさぼっていた)。そういえば友達が九州旅行に行っている筈。たしか熊本と言ってたことを思い出し、YH一覧から適当に電話してみたら、当り。彼女が感激したのは当然である。小生もマメだったなあ(今も?)。
1971.3.14(日)雪→下界は晴
よく眠ったが、あまり良い天気ではない。晴だが降雪あり。とにかく茶臼までは行こうということにして、08:30ごろYHを出発した。08:55リフト終点・大黒森(1451m)からすぐ滑って、09:00からシール登高。今日はシールの調子が良かった。10:00茶臼小屋まで行って天気の様子を見る。2人連れのベテラン風ツアースキーヤーが吹雪の中を平気で進んで行く。Y先生も「雲は薄いから大丈夫だろう」と判断。行くことにした。158などの数字を書いた指導標が、文字どおりべたべた取り付けてあって、これなら相当濃いガスでも道に迷う心配は少なそう。昨日茶臼にいた大パーティーが更に竹竿を立てて行ったからコースは完璧、しかもさきほどの2人のシュプールに付いて行けば良い。
かなり濃密に雪が降る中を、黙々とシール歩行。雪が付かないように薄手のヤッケを着て歩いていたが、先行する2人に「そんなものを着て歩いたら汗をかく」と注意された。
しばし新雪を蹴立てて緩い下りで、黒谷地の峠からはシール登高。先の2人はシールのまま下って行ったが、我々はシールを外して源太森(1600m)から緩い下りを滑る。少し登って、平坦な地形、八幡沼畔の稜雲荘(だっけ?)という小屋へ11:00。ここで1時間近く休憩し、おにぎりとお茶、パンもたらふく食べた。
12時ごろ出発。シールを付けて少し登る、割合急だった。八幡平頂上(1613m)は平坦な地形でどこが頂上か分からないまま通過。やがてシールを外してあとは只管(ひたすら)下る。1500mあたりからちょっと急な滑降になるが、深雪のため曲がらなくても雪の抵抗があるから直滑降で良い。膝まで潜るとモモに当った雪が上向けに舞上がって顔にかかる、この快感。ヤッケにあたる雪の結晶がさらさらと音を立てる。う〜んこの快感。しかし深雪をすいすい「映画のように」滑れるようになるのはずっと後年のこと。
かなりの距離を滑って、崖状の箇所を下ると、まもなく蒸の湯(1100m)、ここは冬期閉鎖中(当時はまだ蒸の湯にスキー場は無く、冬は道路がここまで開通していなかった)。先行するパーティーの踏み跡をたよりに、さらに前進する。菰の森方面へ北上する形で、平地(湿地帯)、少し登り(菰の森の肩)、あとは下り。標高が下がるに連れぼたん雪になり、やがて晴れてきた。雪質も急に重くなる。かなりの距離(標高差で300mぐらい)を滑って、道路らしい地形に出た。道路を横切って更に緩斜面を下り、やがて14:20トロコ温泉(600m)。
ここでスキーを脱いで、湯瀬ホテルの経営する小さな温泉旅館に入り、50円で入浴する。ここも硫酸泉で、美術サークルの指輪が金茶色に変色する。
15:30のバスで下山する。一面真っ白に雪が積もった道路を、バスは景気良く飛ばす。小豆沢(あずきざわ)駅(現在の八幡平駅)で約1時間待つ。当時の花輪線はSL(8620型)の宝庫。駅で時刻を聞いて、8620牽引の貨物列車を撮影した。花輪線沿線は積雪が多い、まさに冬の東北地方そのもの。途中で86とC12が並ぶシーンがあったが、もう夜で写真が撮れない。列車の中で口を開けて良く寝た。
盛岡でわんこ蕎麦を食べようとしたが、満員で断られ、もう時間が無い。当たり前の店に入って鍋もので酒(朝びらき)を飲み、適度に満腹。九州旅行中のK嬢は、今日はたしか指宿だと言ってたので、当てずっぽうに指宿YHに電話したら、偶然いた。彼女が感激したのは言うまでもない。21:10発、寝台車(北星)に乗る。しばし漫画を読んでから、大宮までぐっすり寝た。
1971.3.15(月)東京は快晴・あたたか
朝帰って、昼まで寝てから洗濯。午後は本郷通りでもうじき廃止になる都電の写真を撮る。この頃は、たいてい誰かが写真を撮ってた。しかし交通渋滞で、自動車が邪魔でうまく撮れない。
●メモ:旅行ファイル作成前なので、半券も領収証のメモも寝台券も、何も無し。記録は当時の日記と5万地図余白のメモによった。
地図:田山、八幡平(1:5000/S43版1色刷)