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1971.05 薬師岳、雪洞泊、雨で登頂ならず
日程:1971.5.1(土)〜5(水)
参加者:NABE、Y本、Hら、Mろ

1971.5.1(土)
 建築センターで設備ユニット試作品を見る。松屋で山の食糧を買う。夕方17時、上野駅。6番ホームには既に40人ぐらいずつ列が出来てる。1〜2両目に並んで階段に席を取り、客は連休北陸旅行のOL(当時はBGと言った)が8割ぐらいで、Y先生が17:45に現われ、大急ぎで東京駅へ行った、と日記にあるが、何のことだろう。記憶を辿ってみれば、いったん上野に並ぶ順を確保してから東京駅へ行って、当時仲良しだった女性が旅行へ行くの(18:00はやぶさ東京発?)を見送ったということのようだが、詳細は忘れた。しかし我ながらマメですなあ。
 上野へ戻って、発車30分前にやっとM氏・H氏が現われメンバーが揃った。20:00、当時よく利用した北陸1号、上野発。超超超満員で「込んでいる」なんて生易しいもんじゃない。どうせ眠れないんだったら、ということで、荷物を背負子から分解してあちこちに詰め込んで、4人とも座席の隅に腰掛けさせてもらって、何とか座った。周りは通路いっぱいに立っているのにここだけ座ったものだから、「ずる〜い」とか言う声が聞こえる。どうせ暇だから周囲にもお節介して、なるべく座るようにしてあげた。無理な姿勢で腰が痛くなるから、ローテーションで席を代わるから、やはり眠れない。女性客が夜中に1回ずつトイレに行くが、こっちはその度に席を立つのは面倒だから、手荷物と靴を先に送って、手を取って膝の上を歩かせる。だから眠れない。車掌にも膝を歩けと言ったがさすがにそれは出来ませんと言うから、週刊誌を膝に置いて、これで通って下さいというが、お客様を踏んで歩くわけには行かないと言う。こっちも立つのは面倒だ。ついに車掌氏、天才バカボンのお巡りさんのような足つきで、ぴったりくっついた膝の間に靴先を突っ込んで、床には足が付かない状態、つまり「摩擦杭」の原理で、無理やり「歩いて」(?)行った。そんなこんなでけっこう楽しかったが、一睡もしなかった。

1971.5.2(日)
 富山→飛騨船津→打保→寺地山→草地(雪洞泊)
 まだ暗い内に富山着。駅から出ないでホームの端から神岡線へ。この列車には登山者がけっこう乗っていたが、我々以外全員が新穂高方面へ行った模様。一瞬まどろんで、6時過ぎに飛騨船津へ。電話ボックスからタクシーを呼んで、打保(うつぼ)まで約1時間。下車して、荷物のパッキングをしなおし、スキーはキスリングの上に横に載せて縛る「マイナス型」。因みに、アタックザックの左右に付けて上部を縛ったのが「A型」、荷物がデブで上が縛れないと「H型」、背負子に平たく付けると「=型」(2枚のスキー板は左右逆向けに付けると荷重がバランスする)。スキーの真ん中を縛ってX字型に開いてザックと背中の間に挟むのは「X型」。当時はスキーに紐を付けて引いて行く智恵はまだなかった。
 8時に打保集落の一番奥から出発し、全く雪の見えない山道を登る。手前の山の向うに北ノ俣岳らしい山が見えるが、空は高曇で天候はあまり芳しくない。
 30sの荷物は肩に食い込んで、腰に来る。30分も歩いたらもう息はぜいぜい、昨夜は殆ど寝ていないから、ひどく疲れる。小生が最後を歩いていたのを良いことに、歩いたり休んだりのペースで行く。打保乗越のあたりで鱒鮨を食べる。このあたりから何とかスキーが出来なくもない雪が現われるが、急な斜面だ。景色は伐採跡で実に味気ない。
 また下って水の平。ここで面倒だから尻滑りしたが、最大傾斜線に向かって体がまっすぐ滑る(当たり前だ)。ここから林間を登ることしばし。テント発見、男女2人ずつが、まだ14時だが早くもテントで休んでる。我々も休みたいが、今日の目的地の避難小屋はまだ遠い。ひたすら登り続けるが、この先に足跡は無い。三角点のあたりでシールを付けると、スキーの分だけ軽くなって、肩が少しは楽になった。
 平らな尾根を登って寺地山へ。北俣岳への視界がばあ〜っと開ける。このスケール感が良い。草地に見える木々の1つが小屋のように見えるという意見もあったが、小生にはそうは見えない。スキーで少々下る。スキー靴で歩くが、もう睡眠不足でばてばて。
 このへんにある筈の小屋が見つからず、雪に埋まっている道標を掘り起こしても「草地」とあるだけ。積雪は4mぐらい。諦めて小屋は雪に埋もれていると判断し、雪洞を掘って寝ようということになった。
 急斜面の吹き溜まり状の風下に掘り始める。スキーで掘る、という話を思い出してやってみたが全く無理。途中で諦めて木の下の窪みにポンチョを張ってビバークというのも考えたが、あまりに寒そう。2日も寝なかったら体が持たないし、その後のスキーが面白くないから、とにかく穴を掘って寝ようということになった。Y先生は、小生が菅平の別荘(I別荘:小生の設計処女作)で遊んだ時にかまくらを掘ったという話を思い出して、どれくらい時間がかかったか聞かれたのだが、思い出せない。最初はなかなか捗らず、どうなるか気が気じゃなかったが、コッヘルで掘るという手法を発見してからは格段に速くなった(こういう手法開発にはH氏が有能)。2人が中で作業できるサイズまで掘り進んでからは更にスピードアップ。コッヘルの蓋で削った雪を、コッヘルの「身」を伏せてぐるぐる回すと中に雪が詰るから、それを転がせば、いとも簡単に雪が排除できる。雪洞掘りは、雪を掘ることより、掘った雪を除去する方が大変である。
 何とか4人入れる広さになったところで、とにかく食べて体力を付けることに。餅入り豚汁、お茶、レモン。
 しかしこのままじゃ窮屈で体が休まりそうにない。更に穴を拡大することにした。この時、リーダーのY先生が実は相当バテていて、あっちの木陰で吐いていたのには気付かなかった。我々隊員は状況を楽しんでいたが、リーダーは気苦労が大きかっただろう、下手すりゃ遭難だから。
 削った雪をコッヘルで円柱状に成形して転がして排出していたが、途中で気付いてそれを穴の外に積み上げて防風壁にする。床も平に均し。偶角部も直角に成形した。合計3時間も作業しただろうか、結果的に1.2m×2.2mという、実に快適な雪洞ホテルが完成した。登山道の真ん中だから、標識用にスキーやストックを立てて、踏まれないようにする。しかし疲れた。ザックで蓋をして、レインコートでカーテンを下げ、4人でゆったり脚を伸ばして寝た。全く未経験なのに、こんなに快適な宿が出来て、大いに満足。よく眠れた。

1971.5.3(月)快晴→曇
 草地(雪洞)→北ノ俣→太郎小屋(泊)
 好天だ。昨夜は疲れたから、今日はゆっくりする。午前中雪洞で濡れたものを乾かしたりする。雪のブロックをこつんと外してそのままコッヘルに入れて、ラジウスで融かして飲み水にする。ゆっくり朝飯を食べてたら、昨日のテントの4人が上がってきて、雪洞を覗き込んで感心することしばし。当然だ、作った方のこっちだって驚いているんだから。しかし彼らは、スキーやストックが立ててあるのに穴の真上を歩いて行った。
 10時ごろ、やっと出発。シールで登りはじめてすぐに、右手に本来泊る筈だった避難小屋があったが、天地根源造で狭くて寒そう。雪洞を掘るのはしんどかったが、却って小屋が見つからなかったのは幸運だったかもしれない。
 暑いから腕まくりしたら、じりじりと焼けるのが分かる。さっきの4人が雷鳥を追っかけながら下ってきたから、写真を撮ってもらう。岡崎から来たそうだ。
 朝は快晴だったが、稜線に出た時には既に曇って来た。槍・穂高・乗鞍・御嶽・笠・薬師・劔・白山、すっかり見える、高曇。昼はパン。
 北ノ俣岳の頂上までちょっと行って来よう。5分ほどシール登高したが、空身だから何と身軽なこと。さっきの4人は頂上に鯉幟を立てて行った。1分だけ直滑降してから、また重い荷物で太郎山まで、ひどく腐った雪をずるずる滑る。脚は疲れてがくがく。片足荷重になると腐った雪にめり込んで転倒する。25sの荷物では自力で起上がる努力はしない方が良いから、助け合う。最後の太郎山の登りでは本当にバテた。山の右を巻いて、フィルムを詰め替えてから、さーっと滑って小屋へ。
 小屋の客は6+4(我々)+2(山スキー)+2+2+1人、それと小屋の居候。山スキーの2人は、ジルブレッタという新兵器を持っていて、ゲレンデスキー装備の我々とは大違い。道具についていろいろ説明してくれた。
 夕食は豚肉・餅・人参・玉葱入りスープ。2畳半ぐらいに4人で、蒲団敷いてシュラフで寝たら暑かった。夜中にすごーい風と雨になった。明日は沈澱だろう。

1971.5.4(火)
 太郎小屋(沈澱)
 今日は一日中暴風雨で、小屋から出られず。水にする雪を拾いに行くだけでびしょ濡れになってしまう。朝は昨夜のスープを利用してラーメン。昼は食糧食い延ばしのため食糧計画を練り直し、またラーメン。夜は酒を飲んで、御飯を炊いて塩辛・昆布・梅干と、ベーコンを焼いたのをおかずにして食べた。この酒は小屋で買ったのか持参したのか記憶に無いが、日記に「酒8合」とあるから日本酒だろうけど、日本酒を担いで行く筈が無いから、小屋で買ったのだろう。飲んだら良い気持になった。思えばこのころは酒に弱かった。
 乾燥室(ここだけは暖かい)でスパッツなど繕い物などしながら、山スキー屋(かなり自意識タイプ)にいろいろ講釈を聞く。荷物は徹底的に軽量化し(コンソメ1かけらで米を食うとか、雪は溶けにくいから氷を探すとか)、スキー兼用山靴で、踵の上がる締具・ジルブレッタを付けた165cmのスキー。槍沢から入ってきたそうだ。ちょっと憧れる。これを機会に、我々Y先生一派も、やがてジルブレッタなど踵が上がる締具を装備するようになるが、兼用靴を履くようになるのはずっと後。
 深夜、星空。明日は好天だろう。

1971.5.5(水)快晴
 太郎小屋→(大滑降)→折立→有峰→有峰口→名鉄名古屋→帰京
 朝4時過ぎに起床。窓が実に綺麗に結霜しているが、この分なら雪面もまだかりかりに凍っているから滑りやすいだろう。早く出たい。朝飯はパンを煮て食べる。栄養にと卵・バターを加えたら「げ〜っ」という味になった。
 とにかく感激的な好天。雪面は凸凹に水洗いして凍らせたように、がりがり。最初の内は洗濯板滑降で、音がすごい。膝から下が振動で「じ〜ん」となるぐらい。例の2人とほぼ並行して下山する。6人のパーティーがアイゼンで降りてきたが、もたもた滑ってたら寧ろあっちの方が速いぐらいで、折立では追い越され、ちょっと屈辱的。広大なかりかりの斜面に素晴らしいシュプールを残しながら下る快適さったら無い。林間に入ってしばらく下ったところで、スキーを脱いで、下りがあったら尻で滑ったりしながら折立へ。ここまで2時間。
 トンネルが分からず、地図を見て探してトンネルへ。6人パーティーがアイゼンを付けたままでぎしぎし歩いている。トンネル内から既にガスりはじめ、やがてトンネルを出るが、出てびっくり、ものすごい断崖絶壁だ。急斜面に切り込んだ道だが、雪が付いているから歩く水平部分が無く、怖い。やがて右折して沢へ下るが、30度ぐらいの雪の斜面を靴で下るのは怖い。H氏はスリップし、危うく木に引っ掛かって止まった。下で受け止めてもらって尻滑りで下る。沢を下ってやっと道路へ出るが、途中で無駄な沢渡りをして足を濡らした。
 小屋から無線で呼んであったマイクロバスがすぐ来る。この道路も昨日除雪開通したばかりだという。12人分の荷物と6組のスキーと12人を積み込むのに苦労したが、何とかぴったり納まった。さっき上がってきたばかりの道なのに、落石で通れない。ということはここは落石でやられる可能性大ということだが、超満員のマイクロバスからは脱出不可能。車を止めて運転手が石をどける間がちょっと怖い。沿道のあちこちに雪崩の跡がある。大きなアーチ型の有峰ダムが見える。
 有峰口に着いたら、あと1分で列車が来るという。切符も買わずに飛び乗ったら、何と名鉄の高山線・富山地鉄乗り入れ「北アルプス」号・神宮前行き(この列車は横連窓のパノラマ窓の車体がスマートなキハ8000型で、昭和45年から58年まで高山線から富山地鉄まで乗り入れていた)。このまま新名古屋まで行けるとは幸運。割合空いている。洗面所で歯を磨き顔を洗い、とっておきの乾いたTシャツに着替えたらすっきりした。富山からはけっこうこんできた。16:31新名古屋着。なつかしいバスの色、市電もまだ健在だった。駅の日本食堂で生ビールと飯。名古屋からはひかり(当時「ひかり」は全車指定)の立ち席券も売切れで、こだまのデッキで帰る。Y氏・H氏は小田急だから小田原で降りた。21時前、東京着。水道橋から当時の下宿・白山下までは、スキーがある時は歩くことにしていたが、さすがに今日は歩くのが辛かった。ぐったり疲れて、東京駅で互いの出発見送りした彼女に電話しなきゃと思いながらそのまま寝てしまった。
 翌日、またもや顔がぼろぼろ。天気が良かったのはほんの半日だったのに、5月の山の紫外線は油断が禁物、日焼け止めを塗っておくべきだった。当時まだ8倍とか16倍とかの日焼け止めなんか売ってなかったから、せいぜい油。カーマインローションを付けて白い粉が吹いた状態になると、余計目立つ。2日後には顔全面が「赤剥け」状態で、痛い。
 思えばこのころは、重い荷物を背負って無茶な山スキーをしてたもんだ。