姉妹研究室のスキーで野沢温泉:毛無山へちょっと
日程:1974(昭和49)年3月12日(火)
参加者:NABE、S藤、M谷
コース:上野→長野→木島→野沢温泉(泊)/ゲレンデ→毛無山往復/野沢温泉→長野→上野
1974.3.11(月)晴
自分の研究室ではまだスキーに行く雰囲気が醸成されていなかったので、先輩で隣の研究室であるi研究室の野沢温泉スキー合宿に参加した。理工学部建築学科出身、もとスキー部主将のS藤君がi研究室の大学院生で、小生の山スキーの話を聞いて是非行きたいと言うから、毛無山に登り、北竜湖にでも下ろうかという計画。
i先生と上野を出る。先生は何とも古風な耳当て付きの帽子と長靴のスタイルで、一緒に歩くのが憚られるくらい。でも先生はグリーン車が良いとおっしゃるから、独身貴族の小生は付き合わざるを得ない。どうせ空いているからと適当に座っていたら、何だか態度の大きい親父がここは自分の席だから荷物をどけろと言う(仕種をする)。その横柄な態度に地一瞬むっとしたが、彼は位牌を持っているから、一応敬意を表して席を移りながらよくみたら、長野県出身の代議士、K坂Z太郎(T三郎の方じゃなかったと思うけど自信なし)だった。駅長まで見送りで、途中、安中で徐行するから変だなあと思ったら、S越化学の工場で社員が整列して最敬礼してる、これって現代の光景?と妙な気持になる。長野に着いたらまた駅でお出迎えの行列。静かな筈のグリーン車旅行がとんだ騒ぎに巻き込まれた形。なおK坂Z太郎代議士については、落選した直後に帰省するのに同じ列車だったこともある。それだけ小生もよく長野に行っていた訳だ。
長野でお昼を食べたら、急に鼻血が出てびっくり。この頃はよく鼻血が出た。今思うと独身で精力が余っていた?、いやいや、鼻の粘膜に弱点があっただけ。長野電鉄、バスと乗り継いで、宿(山三荘、本当は「へ」の下に「三」と書く、理工学部スキー部の定宿)に着いたら、主力部隊が出かけた後で、i先生とはスキーの技術が違いすぎるからお付き合いは辞退して、残っていたS君・T君たちと出かけた。唐沢ゲレンデはつまらないから、長坂へ。たらたらでコブだらけの斜面。みんなさほど巧くない。夜はだいぶ酔っ払った。i先生は全然飲まないから、変な気分。
1974.3.12(火)晴→曇、夜:雪
今日はあまり天気が良くないし、何だかもたもたして出遅れた。S君はツアー用のスキーを借りて来ていたが、担いでいるうちに捩じ込みしきのヒールピースを落してしまったなどと、スキー部にあるまじきことを言っている。山に連れて行く自信なし。しかし助手M君まで付いてくるという。断る訳にも行かないから、北竜湖へ下るのは中止して、毛無山を往復することにした。これなら素人でも安心で、山の気分も出る(当時まだ毛無山にリフトは無かった)。
リフトの終点から50分ほど登って、毛無山の山頂。M君はちょっと行動が粗っぽくてはらはらする。山頂に着いたらスキーを投出して自分も雪にばったり倒れ込む。どこかで覚えた仕種だろうけど、こういう事をして、もしスキーが流れたらどうします?。
山頂からはカヤの平方面が望めるが、あまりに遠い。いつかは奥志賀からここまで歩きたい(実は翌年このコースを踏破する)。下山する時、既にガスがかかりはじめた。良いタイミングだった。林間コースの軽〜い新雪(20〜30cm)を楽しんだ。このホームページは「山スキー」であり、この記事の主要部分はここなのだが、今回はこれだけ。
1974.3.13(水)雪
昨夜の内に60cm〜1mの新雪が積もった。裏日本の山の恐ろしさを肌で感じる。30゜以上の斜面をスキーを立てるようにして殆ど直滑降で下るのは、まるで水上スキーのようである。一度転ぶと掘り出すまで苦労する。雪面にストックを刺しても手首まですっと入る。牛首コースは雪が深すぎて滑れず、シュナイダーを2回、チャレンジを1回滑ったが、重い新雪を「水上スキー」状態で滑るから、太ももがツりそう。
M君、T君とi先生とで、普通車で帰った。
●メモ:
急行グリーン券・都区内→長野:2800円
長野→木島→野沢温泉(連絡切符):490円
バスのスキー券:50円
山三荘(苅和幸治):02698-5-2300
運賃・戸狩→都区内:1050円
自由席特急券・長野→400q:700円