立山初滑り:膝まで潜る深雪スキー
日時:1976(昭和51)年11月20日(土)〜23日(火)
参加者:NABE、Y本
コース:20:上野→富山→立山→弥陀ヶ原・立山荘(泊)/21:→室堂→浄土→室堂小屋(泊)/22:→一の越→浄土平→劔御前→雷鳥沢→弥陀ヶ原→富山・山本家(泊)/23:富山→上野
1976.11.20(土)→雪
今回はY本先生と2人だけで立山へ向かう。上野から「はくたか」で富山へ。暇だからパチンコをしたが出なかった。この頃、R大学I先生の影響で結構パチンコをやってた。しかしその後、成績(出玉率)を記録するようになってからは、やればやるほど店の平均出玉率に近付くことが分かって、もう下らなくなってやめてしまった。パソコン(NEC:PC9801)を買ったこともやめた理由。富山からは母親に電話して、お見合い話を断った。
立山(旧・千寿ヶ原)からはケーブルカーではなくバスで登り、宿はいつもの立山荘だが、がらんと空いている。
1976.11.21(日)晴れたり曇ったり
朝、バスを待つ間、弥陀ヶ原ホテルの前で滑るが、斜度が緩すぎる。バスで室堂ターミナルへ。立山も変わったものだ。荷物をデポして、浄土の肩まで登るが、新雪が深くてシール登高がなかなか捗らない。いったん滑降して、室堂小屋にチェックインし、荷物を置いたらまた近所の斜面を滑った。さらさらの新雪に、我ながら惚れ惚れするようなきれいなシュプールを残して滑った。柔らか目のショートスキーの所為か、面白いように新雪滑降が決まる。新雪(深雪)スキーにすっかり自信が付いた。
宿は12畳に19人。相客はみんな品が無い。関西の7人は柄が悪く実に下品で枕を投げたりする。名古屋の3人も格調低い。こいつら2組は昨日からいる。他にいかにも山男らしいオーバーな男とその連れの3人組、京都から車で来たアベック2名、おとなしい花(あと判読不明)のスポーツ型2名、それと我々2名。う〜ん、感じ悪いが我慢して寝よう。
1976.11.22(月)晴れがち
どうやって帰るかは、積雪と天候まかせ。室堂を出て適当な場所に荷物をデポし、まず一の越へ登ってみる。御山谷は積雪不足なので下れない。一の越からはずーっと下の川まで深雪に見事なシュプールを付けて滑降し、浄土沢から雷鳥沢へ回って、雷鳥沢は向かって左を登り、乗越から檜谷を覗くが、まさに絶景。雷鳥の下りは晴れて気温が上がったから雪は重くシュプールも多いから、あまり快適ではない。滑降の後、宿泊者ではないのに立山連峰ホテル(ベルクハウス)に勝手に上がり込んで昼食。
荷物デポに戻って、荷物を背負って天狗へ。その後は殆ど道路沿いを滑って弥陀ヶ原15:35。立山荘に1泊しようかと覗いたが、もう閉っていたので、慌ててバス停へ戻って15:45のバスに間に合った。バスの中で荷造りをしていたら、カーブだらけで若干車酔い状態。ケーブル代行バスで下山して、蕎麦を食べてから地鉄で富山へ。東急インの2階と近くのひどいスナックで食事するが、既に自分が使った箸を見て「汚れてる」などと店員に文句を言いそうになって、何だか惚けたと焦る。
タクシーで富山市太郎丸のY本先生実家へ、今日はここに泊めていただく。78歳の御父君は見るからに矍鑠たる元気老人。富山市の教育長をしておられた関係で、いつも立山荘を取っていだだいた。今日のスキーを振り返って話すが、Y本先生も小生の深雪スキーの腕前にはびっくりしている様子。
1976.11.22(月)晴れがち
富山から白山1号で帰京。がらがらに空いてた。
帰ってから大学へ出て、研究室と、建築学科のデザインサークルの相手、その後は顧問をやってるユースホステル同好会の学園祭コンパに出て、何と3次回まで付き合ってる。可愛い女子部員がいろいろいて、彼女らを次々と口説いていたようだ。二次会だか三次回だかでは大学の近所の「ハッピージャック」なる「コンパ」(当時はやった大型洋酒バアで、いろいろな客が混ざって飲んでいたものだが、その後、客はグループ単位で飲むようになって、この種の店での客同志の出会いが無くなって、店のプラニングもそれに対応して大きなカウンターは廃された。何だか客が幼児化して行ったような気がする。なお、この店では、無名のフォーク歌手いぬいゆみが弾き語りで"は〜るを愛するひ〜と〜は〜"の「四季の歌」を歌っていたがその後渡米、後に芹洋子に発掘されて「四季の歌」が有名になった時には彼女は消息不明だった筈。)に行ったが、この店にも質の良い女子従業員が減って何だか品位が無くなって、こりゃまずいぜという雰囲気。それでもちゃんと終電に間に合って、自宅でアルコールを補給してから寝た。俺も若くて元気だったなあ。
メモ
富山→都区内:乗車券\3200+特急自由席\(1300→料金変更印あり)
バス・代行バス荷物券:各200円
当時、荷物は背負子を使っていて、古いザックを縛り付けていた。